造血幹細胞移植の副作用:免疫抑制 2006年10月01日
1.はじめに
治療の内容にもよりますが、化学療法を受けた方は通常、免疫力(体がさまざまな病原体と戦う力)が一時的に低下することが知られています。中でも造血幹細胞移植を受けた後など、厳しい免疫抑制状態にある場合には、さまざまな感染症にかかる可能性があります。そして、免疫抑制状態であるために、感染すれば重篤(じゅうとく)な状況になります。そのため、適切な感染予防が必要です。感染症を引き起こす病原体は、「免疫抑制状態の患者さん自身」、「免疫抑制状態の患者さんに接する人(担当する医療従事者や面会者等)」、「環境」に由来します。
免疫抑制状態の患者さんに接触する人がインフルエンザや麻疹(ましん)等にかかっていれば、病原体は容易に感染してしまいます。そのためせきや発熱のある人は、免疫抑制状態の患者さんに接触しないようにします。免疫抑制状態の患者さんも感染症の人に接触しない努力をするとともに、常に手洗いを行い、必要に応じてマスクを使用します。しかし、手洗いやマスクなどの感染予防を徹底的に実践しても、感染症を完全に回避することはできません。それは、免疫抑制状態の人の体内にもともと生息している病原体による感染症は、防ぐことができないからです。
ヒトの消化管(口から食道、胃、腸を経て肛門に至る飲食物の通り道)や気道(鼻からノドを経て肺の奥に至る空気の通り道)の表面には、極めて数多くの微生物が生息しています。しかし、免疫力によって増殖が抑えられているため、通常は病原性を呈することはありません。そのため、微生物が存在していても、ヒトは健康な生活を送ることができます。しかし免疫抑制状態になると、微生物と抵抗力の均衡が崩れ、微生物は急速に増殖します。その結果、感染症が発生します。すなわち免疫抑制状態の患者さんは、すでに体内に生息している微生物による感染症の危険性を完全に避けることは難しいのです。
免疫抑制状態の患者さんやその家族から、食べ物や日常生活についての質問を受けることがあります。ここでは特に、そうした環境からの感染を予防する方法について述べたいと思います。
2.食事
感染症発症の予防のため、免疫抑制状態にある患者さんの食事には、材料の選択と調理法に十分な配慮を行うことが必要です。まず、重大な感染症を引き起こす可能性のある食材は、避ける必要があります。具体的には、生・半生の肉(牛肉、豚肉、家禽(かきん:ニワトリなど)肉、子羊の肉、鹿肉等)は避け、高温で調理してから食べなければいけません。また、生卵や半熟卵、およびこれらを含む食事にはサルモネラの集団感染の報告があるので、やはり避けるべきです。牡蠣(かき)や蛤(はまぐり)のような生・半生の海産物も、ビブリオや腸炎ウイルスに汚染されている可能性があるので、食べてはいけません。流水で洗うことができない生の新鮮フルーツや野菜も避けるべきです。
3.リネンと衣類
リネン(シーツや枕カバー等の寝具)や衣類は、免疫抑制状態の患者さんに直接接触するので適切な対応が必要ですが、普通の洗濯が行われたリネンが感染源になったという報告はありません。したがって、免疫抑制状態の患者さんが用いるリネンや衣類であっても、普通の洗濯で十分です。リネンの処置については、汚れたリネンはできるだけ静かに取り扱い、ほこりを立てないようにします。空気中に病原体がまき散らされることを防ぐ必要があるからです。洗濯については、洗濯サイクル、洗濯方法、塩素系漂白剤の量が適切であれば、十分に病原体を減らすことができます。乾燥時やアイロン掛けのときの高温処置には、殺菌作用が期待できます。
4.ペット
最近のペットブームの影響もあり、多くの家庭で犬や猫等が飼われています。当然のことながら、免疫抑制状態の患者さんの家庭にもペットがいることもあると思います。そのためペット対策は重要です。
ペットには飼い主の心を和(なご)ませる効果があり、精神的な支えにもなります。しかし免疫抑制状態の患者さんは、できるだけペットに接触しない努力が必要です。もしペットに接触した場合は、手洗いを行うようにします。小児に対しては、成人が手洗いを監督しなければいけません。免疫抑制状態の患者さんがペットを飼うときは、下記のように行うのが望ましいといえます。
クリプトスポリジウム症、サルモネラ症、カンピロバクター症などの感染症が媒介される危険があるため、ペットのふんに触れないようにする。
動物のすむ小屋やベッド、かごの掃除をしたり、排泄(はいせつ)物の処理をしてはならない。それらを避けることができない場合は使い捨ての手袋を使用し、処理が終了した後はしっかりと手洗いを行う。
生後6ヵ月以内のペットや、捨て猫、捨て犬等を飼育することは避ける。どのような病原体に感染しているかわからないからである。
下痢をしている犬や猫については、獣医に依頼してクリプトスポリジウムについて検査する。
サルモネラ感染を避けるために、蛇、トカゲ、亀、イグアナ等の爬虫類(はちゅうるい)を飼育したり、触れたりしない。
アヒルやニワトリのひなはサルモネラ属やカンピロバクター属に感染しているため、それらに接触しないようにする。
魚の水槽(すいそう)を掃除するときは、マイコバクテリウム・マリナムと接触する機会を最小にするために、手袋を着用する。
飼い猫は特に注意が必要です。猫の飼育をあきらめる必要はありませんが、猫のふんからトキソプラズマという寄生虫が感染する可能性については、理解しておく必要があります。免疫抑制状態の患者さんが猫と一緒に暮らす場合は、ペットシートやトイレの砂を毎日交換します。この場合、家族が交換することが望ましいといえます。免疫抑制状態の患者さんがシートや砂を交換しなければならない場合は、使い捨ての手袋を着用します。この場合、手袋は使用するたびに破棄して、石鹸と水でしっかり手を洗います。猫用のマットやよく使う敷布などは、除菌するために頻繁に洗濯します。乾燥したシートや砂を捨てるときには、トキソプラズマの卵(接合子嚢(せつごうしのう))が飛散するのを防ぐため、そっと運びます。猫のふんはトイレに流してしまうか、ごみに出すか、深く地中に埋めるようにします。猫は室内で飼育し、不十分に調理したえさや生のえさを与えないようにします。
5.アスペルギルス
免疫抑制状態の患者さんにとっては、アスペルギルスというカビによる感染症が大きな問題となります。どこにでもいるカビで、普通は土壌、水、腐った植物にみられます。フィルターされていない空気、換気システム、ほこり、環境の水平表面、食物、装飾用植物等から培養され、水系システムの水からも培養されることがあります。
アスペルギルスは、空気を介して呼吸器系に感染します。アスペルギルスの胞子は乾燥に強く、空気中を漂って遠方に到達することができます。アスペルギルス胞子を吸入すると、肺組織に浸潤(しんじゅん)して肺炎になります。引き続いて血流を介して拡散し、複数の深部臓器が巻き込まれることになります。特に、侵襲(しんしゅう)性肺アスペルギルス症という重篤な感染症が問題になります。固形臓器移植(心臓、腎臓、肝臓、肺)を受けた患者さんでも報告されていますが、その発生数は、造血幹細胞移植患者よりは少ないことが知られています。侵襲性肺アスペルギルス症による死亡率は、基礎疾患に応じてさまざまです。同種造血幹細胞移植後の発症では、非常に高い死亡率が報告されていて、再生不良性貧血や白血病、HIV感染による免疫不全症、固形臓器移植後も、それに準じた高い死亡率が報告されています。
このようなことから、免疫抑制状態にある患者さんは、アスペルギルス感染の予防が大変重要であるといえます。建築や改修工事の現場では、アスペルギルス胞子が空気中に舞っています。そのため、建築現場などに行くことを避けるようにします。実際に、侵襲性肺アスペルギルス症は建物の破壊、建築、改築のような、空気中のアスペルギルス胞子数を増加させる状況に関連していることが確認されています。
6.レジオネラ
「レジオネラ症」は、「レジオネラ肺炎」と「ポンティアック熱」に大別されます。レジオネラ肺炎はレジオネラによって生じた肺炎を伴う多臓器系疾患で、ポンティアック熱は肺炎を伴わない自然治癒するインフルエンザ様疾患です。レジオネラは水系環境に生息していて、冷却塔、蒸発冷却機, 過熱式飲用水配給システム等が増殖に適した環境です。レジオネラは25~42℃の温度、水の停滞、湯あかや沈殿、特定のアメーバ属の存在等によって増殖が盛んになります。
レジオネラ症は、レジオネラに汚染された水に暴露(ばくろ)すれば、必ず発症するというわけではありません。レジオネラ症の発症には、暴露の種類や程度、暴露した人の健康状態等、多くの因子が関連します。臓器移植や血液悪性疾患によって重症免疫不全になった患者さんでは、レジオネラ症が発症する危険性が非常に高いことが報告されています。糖尿病、慢性肺疾患、非血液学的悪性疾患の方、喫煙者、高齢者では危険性が中程度です。このような基礎疾患は、レジオネラ症の危険因子であるばかりでなく、患者さんを死亡させる危険因子でもあります。
加湿器のような、水が関連する器具を使用する場合には、レジオネラへの注意が必要です。そのため、病院では大型の室内加湿器を使用していません。もちろん、十分な滅菌処置を毎日行い、滅菌水を補充しているなら使用してもかまいません。なお、レジオネラ症にかかった人から、他の人へ伝播(でんぱ)する心配はありません。
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7.おわりに
免疫抑制状態にある患者さんは、正常な免疫力を持つ人では全く問題とならないような病原体によって、重大な感染症を発症することがあります。そのため、手洗いや必要に応じたマスク装着によって、病原体の伝播を阻止することが大切です。ここで忘れてはならないことは、インフルエンザワクチンや肺炎球菌ワクチンの接種です。免疫抑制のある患者さんにインフルエンザワクチンを接種しても、抗体価の増加は不十分なので、インフルエンザにかかる可能性はあります。しかし、インフルエンザの合併症で重症となったり死亡したりする割合は、かなり減少させることができます。そのため、免疫抑制のある患者さんへのインフルエンザワクチン接種は、必ず実施すべきです。同様に、免疫抑制状態の患者さんに接触する人々にも、ワクチンを接種することは大切です。免疫抑制のある患者さんにインフルエンザを感染させる可能性が最も高いのは、密接に接触する同居家族や医療従事者です。そのため、これらの人々にワクチンを接種してインフルエンザを予防すれば、間接的に免疫抑制状態の患者さんにインフルエンザが感染することを防ぐことができます。
肺炎球菌ワクチンの接種も、重要な感染予防策です。このワクチンの接種によって、肺炎の原因菌として最も頻度の高い肺炎球菌の感染を防ぐことが大切です。しかし、日本は他の先進国と比較して、その接種率が特異的に低いという現状があります。免疫抑制状態の患者さんには、積極的に肺炎球菌ワクチンを接種することをお勧めします。
なお、現在使用されているインフルエンザワクチン、肺炎球菌ワクチンは、いずれも不活化ワクチン(化学処理などにより、感染性がない成分を使用したワクチン)です。ワクチンの接種によって、インフルエンザや肺炎球菌感染症を発症する可能性はありません。また、いずれのワクチンも化学療法後や造血幹細胞移植後の免疫不全に対する保険適用はないため、自治体によっては、接種者に対する公費助成を行っているところもあります。免疫抑制状態の患者さんを感染症から完全に守ることは不可能です。しかし適切な感染予防策によって、感染症となる危険性を減らすことは可能です。